幸福の科学ってなに?①
とりあえず知り合いにツッコまれましたので、先に申し上げておきますが、
幸福の科学はヘッドギアはつけません!(笑)
冗談はこの辺にして、
公式に言うと、『正しき心の探究』ということですが、
わかりやすく言うと、
『心を変えれば、人生が変わる。心を正せば、人は幸せになる』
だそうです。
受け売りくさいですが、そういうことなのです。
どういう事かと言うと、
物の見方ひとつで、自分を取り巻く環境や、過去や現在が違って見える。
だから、心を調整することで、自分の過去や、現在置かれている環境に影響されず、
幸せになることができるってことです。
受け売りを翻訳してみたものの、あんまし納得できないなぁ・・・
だって、アホやん。
自分が酷い目に合ってて、幸せを感じることなんてできるわけないし、
実際にそういう人がいたら、アホだと思う。ありえないと思う。
けれど、本当に幸せを感じているときって、
人からどう言われようが、どう思われようが、自分は幸せなんだ。
それは、人に左右されるもんじゃない。
ぼくの場合なら、ごろ〜と横になって、好きなマンガ見てるときとか、
熱中しながらアニメ見てたり、ゲームやってるときが、すごい好きだけど、
家族から見れば、邪魔くさいし、よくもまぁと言われるわけで・・・
結局、自分の幸せ、不幸せは自分で決めるものだから、
幸せだって思えるようにしようってのが、この宗教の言ってることの趣旨なのです。
〜悪役編〜
ファイアはゲーム・アニメ大好きっ子です。
とはいえ、最近は無理してやりたい・見たいと思わなくなったのも事実なのですよ。
昔は、ネトゲやりながら、深夜アニメよく見てましたねぇ。
今は、夜更かししてまでやりたいと思わなくなりました。年食ったかねぇ・・・
今回はその理由を考えてみようかなと思います。
見なくなってきた理由の一つとして、見終わった後に見てよかったと思える作品が減ってきたのかなと思うのですよ。
理由のひとつとして悪役があります。
話を盛り上げる存在として悪役の存在は不可欠ですが、やっぱりいろいろタイプありますよね。
悪役だから悪いことするタイプ、復讐や生存など、悪役にも事情のあるタイプなど
いろいろあります。
その中で、どのタイプが一番凶悪なのかということを考えると、
“愉快犯型”の悪役がもっとも凶悪なのかなと思います。
愉快犯だからこそ、悪の手法にも凝るわけですよ。
例えば、映画「ダークナイト」で、悪役ジョーカーは、正義感溢れる検事が悪に手を染めるようせしめます。
これに限らず愉快犯型の悪党は、相手を直接ではなく周囲の人間を狙ったり、相手の立場を貶めたりと、心にダメージの与える手段を選ぶわけですよ。
最近こういう悪役も増えてきましたが、見ていて結構不快なものですよね。
本来、主役が悪役を倒す姿に爽快感を覚えるものですが、ここを中途半端にしてしまう作品が多いと思うのです。
これが、
昔の作品に多い“悪役だから型”、要は悪役としての掘り下げの足りないタイプだと、倒すのも相手が“悪だから”で片付きますし、
悪役にも事情がある“悪役にも事情があるんだ型”だと、程度に違いはあれ、悪役もやっていることを理解した上で悪をなしているので、倒しても不快感が残ることは少ないです。
しかし“愉快犯型”は、悪が人の性みたいな開き直りをやって退場することが多いものだから、さらに中途半端感が残って、見てよかったと思うことが少ないと感じるんですよ。
愉快犯はただ倒すだけでは、根本的解決にならないと思うのです。
自分がやってきたことが、どういうことなのかを理解させて、後悔なり、反省なりをさせた上で倒さないと中途半端だと思うんです。
しかし、これがその辺を抑えて倒すと見終わった後、見てよかったなって思えますね。藤田和日郎先生はその辺がわかってますね。
「からくりサーカス」アニメ化しないかな、よほどの神作画じゃないと表現しきれないけどさ。
はじめに
さっそくこういう日記をつけ始めてみたものの、
まぁ、一般的に宗教って胡散臭いものって思われてるよねぇ。
実際に、幸福の科学は一般的に新興宗教だし、
新興宗教においては、オウムだとか、法の華とか事件起こすようなものもあるから、
胡散臭く思われても仕方ないと思う。
ましてや、神がいるとか、死後の世界があるだとか、
そんなんいきなり言われて信じられるものじゃないし、
そこで言うような世界観なんてそうそう信じられるものじゃない。
だって、そんなの見たこともなければ、証明されてないもん。
当然の話ですね。
けれど、ひとつ言えるのは、
感じられないものが、感じられないから信じられないのは、ちょっと違うと思うのです。
だって、携帯電話って電波を使って会話をするけど、
その電波って人間に感じられないものですよね。
けれど、その電波を使うことで我々は携帯電話使っているわけです。
むしろ、携帯を使うことで、電波の存在を信じているという感じなのかな。
他にも、感じられないけど存在しているものってのはたくさんある。
だから、もしも、もしもの話だけど、
実際に、神がいて、死後の世界だとか、そういうものが実在するとするなら、
感じられないだけで信じないってのは短絡的すぎると思うのですよ。
だから、もしこの日記を読んでくれるなら、
もしかしたらそーゆーのもあるかもねーくらいの気持ちで見てくれるとうれしいです。
はい、拙い話ではありますが、よろしくお願いします。